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オーディオブランド探求 ~JBLその1~(James Bullough Lansingの生涯)


JBLといえばオーディオマニアでなくても、誰もが知っているアメリカのスピーカーメーカーです。このスピーカーがなぜ人々の心をとらえて離さないのか?今回は創業者のジェームス・バロー・ランシングの生涯を通して、その人気の秘密に迫りたいと思います。

ジェームス・B・ランシング

1902年1月14日、イリノイ州マコーピンに住む炭鉱技師のヘンリー・マーティニ夫妻の14人兄弟の9番目の子供として生を受け、名前はジェームスと名付けられました。ジェームス少年はとにかく電気機材をいじるのが好きで、12歳の頃にはあちこちから部品をかき集めて小型無線送信機を組み立てます。この装置から発する電波があまりにも強かったためイリノイ州の海軍無線局にキャッチされて、発信元を突き止められて分解させられたというエピソードが残っています。その後イリノイ州のビジネスカレッジで学んだあと、自動車修理工として働きました。その働きぶりはまじめそのものだったようです。

ジェームスが22歳の時に1つ目の転機が訪れました。母親のグレースが56歳の若さで他界されました。お母さん子だったジェームスは大きなショックを受け、この地を離れ独立して生きていくことを決め、ユタ州ソルトレクシティに移住します。この地でジェームスは2つの運命的な出会いを迎えます。一つはのちに生涯の伴侶となるグレナ・ピーターソンとの出会い、そしてもう一つはその後共同経営者となるケン・デッカーとの出会いでした。

ケン・デッカー

ジェームスは25歳まで、ソルトレークシティでラジオ放送局の技師として働きます。その頃ジェームスとケン・デッカーは、当時のラジオ放送の音があまりにもひどかったためスピーカーユニットを開発しようと話し合っていました。その製品化にメドをつけた二人はソルトレークシティからロサンゼルスに移り、1927年3月9日、「ランシング・マニュファクチュアリング社」が誕生しました。またジェームスはその直前にジェームス・マーティンと名乗っていた名前を「ジェームス・バロー・ランシング」と改名しました。マーティン家は父親の仕事の関係から引っ越しが多かったようで、イリノイ州リッチフィールドのバロー家に住んでいた時があり、その生活がとても楽しかったようです。ランシングはミシガン州にある都市名で、ジェームスがその名前のフィーリングがとても気に入っていたようです。
この新会社でランシングは製品開発を、ケン・デッカーは経営の実務を担当していました。


MGMシャラーホーン・システム

しかし1929年に起こった全米の大恐慌でこの小さな会社もたちまち経営難に陥ります。しかしその頃にトーキー映画が始まり、ミュージカル映画「ジャズ・シンガー」が大きな話題となりました。その後全編音声付きの「ライツ・オブ・ニューヨーク」の成功でハリウッドの映画スタジオはトーキー映画へと舵を切っていきます。しかしそこで使われていたウエスタン・エレクトリック社製のスピーカーシステムはナローレンジで多くの映画関係者から不満が上がっていました。そこで白羽の矢が当たったのが、ランシングの会社でした。MGM(メトロ・ゴールドフィン・メイヤースタジオ)はランシングと共同でオリジナルの映画用音響システムの製作に取りかかり、1年後の1934年に「MGMシャラーホーン・システム」を完成させます。しかもその年の「映画芸術科学アカデミー賞」を受賞する大成功だったのです。ランシング・マニュファクチャリング社はこのシステムの成功により、しばらくは安定した製作活動ができました。

しかしこのシステムは大型劇場用の音響システムだったため、映画会社の試写室や放送局のスタジオなどでも使える小型のハイクオリティシステムを望む声が多く、それに応えるために1937年に2ウェイモニタースピーカー「ランシング・アイコニック」(Lansing Iconic)を発売します。1.75インチボイスコイル径フィールドコイル型801ドライバーと808マルチセルラホーンと、15インチ径815Uウーハーを6立方フィートバスレフエンクロージャーに収めたアイコニックは発売と同時に大ヒットとなり、別バージョンで家庭用に外観をアレンジした「サロン」も用意されました。

アルテック・ランシング社

しかし1939年に事件が起きます。ケン・デッカーが飛行機事故で亡くなってしまいます。
ケン・デッカーは陸軍航空隊の予備役将校でもあったので頻繁に飛行演習に出かけており、その際の事故でした。彼がいなくなるとたちまち会社の事業が困難に陥っていきました。
1941年になるとランシング・マニュファクチャリング社は自力経営が困難になり、売却先を探していました。そこで手を挙げたのがアルテック・サービス・コーポレーションでした。
ランシングの能力を高く評価していたアルテックは、19名の従業員とともに新会社「アルテック・ランシング・コーポレーション」へと移籍させて、ランシングは技術担当副社長となりました。この時にランシングは、5年間はこの会社を離れて事業を始めないという契約を交わしていました。このアルテック・ランシング時代に開発したユニットは604同軸2ウェイユニットや515ウーハー、802ドライバーなどそうそうたる名ユニットで、ランシングの開発能力の高さがうかがえます。

ランシングは契約通り5年間の在籍期間を経て、1946年10月1日に自身2度目の会社「ランシング・サウンド・インコーポレーテッド」を設立します。しかしアルテックと合併した時にランシングという商標はアルテック・ランシングに帰属する契約になっていたようで、アルテック・ランシング社から抗議がありました。その結果ジェームス・B・ランシング・サウンド・インコーポレーテッドと変更することになりました。そのため新会社での製品は「ジム・ランシング・シグニチュア」という形で自分の名前を使用しました。年配のJBLファンの方がJBLを「ジムラン」と呼ぶのはこの時代の名残りなのですね。

D-101

ランシングが新しく興したJBLサウンド社の第1作はD101という38㎝ウーハーユニットでした。しかしこのユニットはアルテック・ランシング時代の515ウーハーのコピーだったのと、そのユニットにアイコニックという商標で発表しました。しかしこのアイコニックもまだアルテックと合併する前に彼が考案したシステムだったのですが、この合併の時にランシングはそれまでの技術と商標の所有をアルテック・ランシング社に引き渡すことに同意していました。またしてもアルテックともめごとになったランシングは1947年に新しいアイコニックシステムを作るために新しいユニットを開発しました。それがD130という4インチボイスコイルに強力なアルニコVマグネットを使った38㎝ワイドレンジユニットでした。しかしその時には資金援助を受けるためマークウオード社と交渉をしていました。

ウィリアムス・H・トーマス

その時マークウォード社はジェームス・B・ランシング・サウンド社の株式の40%を取得して、マークウォード社の経理部長だったウィリアム・H ・トーマスを送り込みました。しかしそんな最中、マークウォード社はゼネラルタイヤ社に丸ごと買収されてしまいます。しかしゼネラルタイヤ社はランシングとの関係を続けることには全く関心を持たなかったため、マークウォード社との関係は断たれることになりました。しかし何を思ったのか、ウィリアム・トーマスはこの時点でマークウォード社を離れて、ジェームス・B・ランシング・サウンド社を立て直すためにその経営の重要な役割を担うことになりました。

わずか3年の間に会社は3か所も移転して、そのために製造効率は落ちていき、部品メーカーへの支払いに追いかけられていきました。1949年には会社の負債総額は2万ドルにもなっていきました。ランシングは真面目でキチンとした性格ゆえに、会社の経営不振がどれほどの精神的苦痛を与えていたか計り知れないものがあったのでしょう。1949年9月29日の夜、サンマルコスの自分の工場で自分が大切に育ててきたアボガドの木で首を吊り、47歳の生涯を自らの手で終えました。
ランシングという人は家族はもちろんのこと、仕事仲間全ての人からも愛させていた方のようです。何事もきちんと問題に向き合い誠実で実直な人柄は、彼と接する人々に自然と信頼されるようになっていきました。この人のためなら一緒に苦労しても構わないといった連帯感みたいなものも生まれていたのだろうと思います。マークウォード社から離れてジェームス・B・ランシング・サウンド社に参画したウィリアム・トーマスの行動が、そのことを雄弁に物語っています。この人はランシング亡き後、ジェームス・B・ランシング・サウンド社の2代目社長としてその後の躍進を支えた一人でもあります。



参考文献 : 左京純子 著 「ジェームス・B・ランシング物語」
       別冊ステレオサウンド 「JBLのすべて」
       別冊ステレオサウンド 「JBL 60th Anniversary 」