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オーディオブランド探求 ~JBL その2~( 新生JBLの躍進 )


 ランシングの死後、ジェームス・B・ランシング・サウンド社は彼自身にかけていた1万ドルの保険金が下りたことと、ウィリアム・トーマスが1万ドルの個人投資をして会社の借金を清算しました。トーマスはJBLを再生させるためにランシングが目指した映画産業のプロ機器から離れて、家庭用スピーカーの開発へと舵を切っていきます。当時の映画音響産業はアルテック・ランシングがほぼ独占しており、そこに活路を見出すのは難しいと判断したようです。当時は趣味のオーディオ産業は小さな会社がひしめき合っている状況で、その中でJBLをトップブランドにして確立させるべく、➀美しい外観②エンジニアリングの優秀性③名門としてのイメージ戦略という3つのテーマのもとに戦略を立てていきます。

バート・ロカンシー

2番目はランシング亡き後一番難しいテーマでした。そこでトーマスがエンジニアとして招聘したのがバート・ロカンシーでした。彼はランシングと一緒に仕事をした数少ないエンジニアです。ロカンシーは元々フリーのコンサルタントとしてJBLで仕事をしていました。彼が最初に開発した製品が175ドライバー用のホーン・レンズ「1217-1290」と言われています。その後275ドライバー・375ドライバー・150-4Cウーハーの改良や、LEシリーズのウーハーユニットやエナジャイザーと称していたパワーアンプSE408Sも彼の設計と言われています。その後技術担当副社長を務め、JBLを去った後はガウスでモニタースピーカーの開発に携わっています。ロカンシーは日本にも多大な影響を与えています。パイオニアのプロ用スピーカー部門、TAD(テクニカル・オーディオ・ディバイセズ)の技術顧問として招かれて、1975年プロ用のモニタースピーカーの開発にあたりました。その時に一緒に開発作業に当たった人物が後にレイ・オーディオを設立する木下正三氏です。

ハーツフィールド

JBL初期の名作スピーカー「ハーツフィールド」は、元々はJBLのディーラー組織から寄せられたコーナー型ホーンスピーカーの要望に応えたものであったようです。1946年に登場した折り曲げ型コナーホーンの「クリプッシュホーン」に対抗すべく、インダストリアル・デザイナーのウィリアム・L・ハーツフィールドによって1954年に考案されたものです。クリプッシュホーンは革新的であったが、スピーカーユニットのグレードが低く、特に中域の1インチドライバーユニットはクロスオーバー周波数が400Hzと低いため、中低域の再現に弱点がありました。ハーツフィールドで採用されたユニットは150-4Cウーハーと375ドライバー+537-509ホーン・レンズ(ゴールドウィング)、N-500Hネットワークの組合せで、当時世界最高の性能を誇り、家庭用スピーカーとしての気品あふれるデザイと質感で、モノラル時代の最高傑作と言われています。当時のライフ誌で「究極の夢のスピーカーシステム」と絶賛されました。

D44000 PARAGON

このハーツフィールドの成功で名声を得たJBLは1957年に、後に世界的名声を得る「パラゴン」を開発します。パラゴンの開発・設計者はリチャード・レンジャーという署名な電気関係のエンジニアで、「レンジャートーン・コーポレーション」のオーナーでした。レンジャーは以前から仕事場でJBLのスピーカーを使っており、その意味ではJBLとの関係もあったと思われます。このスピーカーシステムは中央の湾曲した拡散パネルによってワイドなステレオ音場を再現するという前例のないコンセプトに基づくものでした。このアイディアはレンジャー氏からJBLに持ち込まれたようです。元々彼は湾曲した反射パネルを用いたシアター用音響システムを開発しており、そのコンセプトを家庭用スピーカーに応用するよう説得したのがウィリアム・トーマスだという。そしてJBLはレンジャー氏をプロトタイプの開発を請け負うコンサルタントチームの1人として雇います。アーノルド・ウォルフは当時インダストリアル・デザイナーで、このプロジェクトのデザインの責任者でした。彼はレンジャー氏の音響設計を基に、2週間の間アイディアスケッチに費やされました。その結果、図面では到底表現できないということで、1/12スケールの模型を作ってトーマス社長にプレゼンテーションして、即座に採用になったそうです。このパラゴンの成功により、アーノルド・ウォルフはその後13年に渡ってJBLのインダストリアル・デザインの第一線で活躍しました。オレンジ色のJBLロゴやスピーカーのL100Century、SG520プリアンプやSE400Sパワーアンプ等も彼のデザインです。その後1970年に副社長としてJBLに招かれます。
 
1949年から社長を務めたウィリアム ・トーマスは1969年にJBL社をジャービス・コーポレーションのシドニー・ハーマンに売却しました。そのハーマンに請われてアーノルド・ウォルフが社長に就任して70年代のJBLの快進撃が始まりました。ハーマンインターナショナルの傘下に入ったことで、潤沢な資金によりこの時期年商800万ドルから6,000万ドルまで急成長しました。

4343

この頃のJBLはスタジオモニタースピーカーの開発が進められて、1971年に4320と4310といった43シリーズというプロフェッショナルシリーズがリリースされました。このシリーズはかなりのラインナップを展開していって、当時アメリカのモニタースピーカー市場で中心だったアルテックをついに駆逐してしまいました。このシリーズは15インチダブルウーハー4ウェイシステムの4350などの大型システムをはじめとして様々なシリーズがラインナップされていきました。
中でも日本になじみが深いのは何といっても4343でしょう。1976年に発売になった4ウェイスタジオモニターですが、日本ではスタジオに入るのではなく、オーディオファンのリスニングルームに導入されるのがほとんどでした。当時、東京あたりでは普通のアパートの6畳一間でかぶりつきで音楽を聴いている光景は結構ありました。噂によると4343の累計販売台数は10,000セット(20,000台)にもなるとのこと。1セット100万円もするスピーカーが40年以上も前にこれだけ売れたのは驚異的です。しかし本国では家庭に入ることはほとんどなかったようで、「日本にはそんなにスタジオがあるのか?」と驚いたようです。またこの頃は一般のオーディオ販売店以外でも「CAT JAPAN」という通販会社があり、結構な安売りをしていました。当然インターネットなどない時代で、ステレオサウンド等の雑誌広告を盛んにアピールしていました。その後4343は4343B、4344、4344MKⅡ、4348へと進化していきました。

DD55000 EVEREST

1983年にパラゴンの製造が中止になったときから、第3のプロジェクトスピーカーの開発が始まりました。当時のJBL社長のブルース・スクローガンはJBLのラインナップで空白となっていたトップエンドモデルの開発のために、➀ワイドで安定したステレオ感と②高感度というコンセプトを掲げます。➀はパラゴンからの継承であるが、彼は最新のプロ用のホーン技術を応用すれば同様の効果が得られると考えていました。そこにはエンジニアのドンキールが天井用スピーカー「4660」のために考案した「2346」非対称(偏指向性)ホーンの存在がありました。このホーンのおかげでパラゴンの反射板のような広いサービスエリアを獲得することが可能になりました。②の好感度はLEシリーズ以前のユニットは高感度で知られたものばかりだったので、今回も100dB/W/mを目標に開発されました。新しいシステムは「エベレスト」という名前とD44000 ParagonにちなんでDD55000という型番に決まりました。完成したシステムは複雑な曲線を持つ巨大なディファインド・カバレッジ・ホーン(2346-1)と、バッフル面が30度内側を向いた15インチウーハー(150-4H)、60度内側を向いたツイーター(2405H)の3ウェイ構成で、重量145㎏(1本)の巨大なスピーカーシステムです。プロトタイプの段階ではウーハーとツイーターに角度は付けておらず、それこそ巨大な冷蔵庫のような外観でした。その威圧的なデザインを解消するために、ダニエル・アッシュクラフトというインダストリアル・デザイナーが加わって、流れが変わりました。彼はツイーターを巨大ホーンの外側に配置して、サービスエリアを考慮してツイーターに角度を付けました。そこからウーハーバッフルにも角度を付け、冷蔵庫からゴージャスなスピーカーシステムへと華麗な変身を遂げました。こうして1985年に発売になったDD55000は1989年までに約500セットが製造されて、そのうちの大部分は日本へと送られたようです。

K2 S9500

その同じ年に、JBLは次のプロジェクトスピーカーの開発に着手します。ネーミングは世界最高峰を目指した「エベレスト」から次に標高の高い「K2」となりました。しかしこのK2シリーズ第1弾であるK2 S 9500では最新技術によるスピーカーユニットの開発により、結果的にエベレストをも超える魅力あふれるスピーカーとなりました。K2 S 9500ユニット構成は2本の14インチウーハーユニット1400Ndと4インチボイスコイルのドライバーユニット475Ndの2ウェイシステムになり、末尾のNdが示す通り、市販品では初めてマグネットにネオジウムを使用したものとなりました。ネオジウム・マグネットは全ての永久磁石の中で質量当たりの磁気エネルギーが一番高く、同じ質量ならばアルニコの4倍、フェライトの10倍の磁気エネルギーを有しています。半面、熱による減磁や腐食の問題がデメリットでした。腐食はマグネットにニッケルを塗布することで解決しました。減磁はハイパワーのウーハーユニットには難問ではありましたが、そこでエンジニアのダグ・バトンがウーハーユニットにフェライトユニットに使用していたクーリングシステム(VGC)をアレンジして解決させました。
K2 S 9500はユニットだけではなく、そのエンクロージャーの構成も独自のものでした。一番下に45㎏もあるコンクリート製のベースユニットの上に、2個のウーハーユニットはドライバーユニットとアクリル製のホーンを上下に挟むバーチカルツインレイアウトとして、それぞれを独立させて積み重ねる形としました。しかもそれぞれの接地面は4点支持のスパイクによる点接地とした凝った構造でした。このトータルコンセプトはダニエル・アッシュクラフトによるもので、個々の構成ユニットがその相互作用によって一つのスピーカーシステムとして成立させるという稀有なものでありました。特にアクリルホーンは透明の無垢のアクリルブロックからの削り出し加工で剛性の高いホーンとなっています。
オフホワイトのアクリルホーンと上下に重ねられたブラックのウーハーボックスユニットのコントラストも美しく、非常に「華」のあるシステムとなりました。仕上げ色はブラックの他にグレイ・ガンメタリック・ホワイトウォッシュメイプルがありました。

K2 S9800

1997年、JBLは次のフラッグシップモデル「K2 S 9800」の開発に取り掛かりました。開発中は「M1ミレニアム」という名前で呼ばれていましたが、製品の発表は2001年秋までずれ込んでしまいました。コンセプトは妥協を許さない究極のスピーカーユニットを駆使してシステムにまとめるというものでした。
低域は1500AL というJBLにとって20年振りのアルニコマグネットの採用した15インチウーハーを開発します。開発はジェリー・モロで、彼はアルニコマグネット最大の弱点である過大入力が入ると恒久的な部分的脱磁を生じるという問題に対して、フェライトマグネットの磁束安定化技術を応用して対処しました。
435Beも革新的なユニットでありました。1999年にダグ・バトンは新たなコンプレッションドライバーの開発を始めて、これが後の435Beとなりました。彼は歪を抑えながら帯域と出力音圧レベル確保するために、全帯域でピストニック・モーションが可能なユニットを目指していました。そこでベリリウムに注目して、そのダイヤフラム直径が3インチに設定します。このサイズなら15.5kHz以上でなければ分割振動しないことに着目しました。
超高域用ドライバー045Beも革新的ユニットです。広帯域・高出力・低歪率・高指向性の4要素を兼ね備えた1インチベリリウムダイアフラムのコンプレッションドライバーです。
内蔵ネットワークはクロスオーバーが800Hzと10kHzとなっています。ここでもグレッグ・ティンバースが開発した、ネットワーク内のコンデンサーに乾電池でバイアスをかけ、歪を低減させるチャージ・カップルド・ネットワークシステムが採用されています。

Project EVEREST DD66000

そして2006年、JBL創立60周年記念の年に満を持して発表させたのがProject EVEREST DD66000です。
1957年のD44000「PARAGON」、1985年のDD55000「EVEREST」、そして2006年のDD66000「Project EVEREST」と3度目の大型プロジェクトのスピーカーです。DD66000の構想はK2 S 9800の発表の時にはすでに進んでいたようです。チーム・エベレストの重要人物は4人。社長のポール・ベンテ、システム設計の総責任者グレック・ティンバース、ユニット設計ジェリー・モロ、そしてインダストリアル・デザイナーのダニエル・アッシュクラフト。この4人を中心にプロジェクトは進んでいきました。
ユニットはK2 S9800をベースにした正常進化型の発展形で、ウーハーはアルニコマグネットの1501ALを横にダブルで使用、ドライバーは4インチボイスコイル・ベリリウムダイアフラムの476Beにエンクロージャの横幅一杯に広がる大型SonoGlassバイラジアルホーン、そしてスーパーツイーター領域のコンプレッションドライバーは1インチボイスコイル・ベリリウムダイアフラムの045Be-1という組み合わせです。ウーハーの1501ALは1本は150Hzまでのボトムウーハー、もう1本は700Hzまでの通常のウーハー帯域として使用したスタガー動作としています。中域の476Beドライバーは700Hzでクロスさせて高域のクロスはありません。つまりネットワーク構成は2ウェイ+スーパーツイーターとなっています。スーパーツイーターのクロスは20kHzとかなりの高域です。
レザーバッフルに取り付けられた2基のウーハーと、エンクロージャーと一体になった90㎝を超える大型ホーンなど、スピーカーシステムとして圧倒的存在感はダニエル・アッシュクラフト渾身のデザインで、50年前のパラゴンを彷彿とさせます。また15インチダブルウーハーシステムとしては47㎝と異例なほど奥行きが少なく、後ろも美しくラウンドしております。大型スピーカーの割にはセッティングの幅は広いのかも知れません。それでも背面にはバスレフダクトが2本付いているため後ろの壁との距離はある程度必要でしょう。しかしエンクロージャーの奥行きが少ないので、前に出すのは比較的容易かもしれません。

Project EVEREST DD67000

近年のハイエンドスピーカーシステムの傑作ともいえるDD66000ですが、発表から6年が経過して、JBL技術陣はその間のスピーカーユニットの進化に合わせて、最新ユニットを導入したDD67000とスピーカーユニットのコストダウンを図った弟モデルのDD65000の2機種を市場に投入しました。
ユニットの進化といっても、変わったのはウーハーユニットだけで、1501AL-2となりました。振動板の素材が、インジェクション・フォーム材をピュアパルプでサンドウィッチした3層構造となり、剛性とS/N比がアップしたとのこと。それとエッジがポリコットン製のアコーディオン・プリーツ型に変更し、ボイスコイルの巻き幅が狭めれれて歪の低減に貢献しています。またウーハーの高域特性が改善されたようで、ドライバーとのクロスオーバー周波数は700Hzから850Hzに引き上げられました。もう一つ大きな変更点はウーハーユニットを取り付けているバッフル版の材質が変更になりました。DD66000はMDF製で表面はレザー張りでしたが、DD67000はバーチの積層合板を採用、MDFのアウターバッフルとの2重構造になりました。そして表面はカーボンファイバー敷布が張られています。またネットワークも改良が加えられていて、コンデンサーにバイアスをかける「チャージカップル・リニアディフィニション方式が乾電池不要のセルフバイアス式に変更されています。

877Be

そしてさらに7年後の2019年、DD67000は更なるアップデートを図ります。中域のドライバーユニットが476Beから最新の877Be へと変更になりました。4インチダイアフラムとベリリウム素材というところは同じですが、エッジがポリマー素材となり、磁器回路も強化されたとのと、フェイズプラグが5層構造となり、よりシンプルで経路の短絡化を図ってダイレクトでエネルギー感のある中音域を再生するとのことです。


このProject EVERESTは2006年に開発されたフラッグシップモデルですが、基本構造はそのままに、14年経過した今でもフラグシップに君臨しているということは、グレック・ティバースをはじめとしたプロジェクトリーダーたちがいかに先見の明があったかということと、デザインや構造がいかに革新的であったかを物語っています。26年に渡って生産されたPARAGONと同様に、Project EVERESTは今後も長きに渡って人々の記憶に残る名器として君臨していくことでしょう。
その源流には成功と挫折のなかで、不幸にもこの世を去った天才スピーカーエンジニア、ジェームス・B・ランシングの熱き思いがあって、そのエンジニア魂が脈々と現代まで受け継がれているのです。JBLのロゴマークを見るたび、心を熱くしてくれるそのフィロソフィとパッションが今後も引き継がれていきますことを願ってこの回を閉じたいと思います。



参考文献 : 左京純子 著 「ジェームス・B・ランシング物語」
       別冊ステレオサウンド 「JBLのすべて」
       別冊ステレオサウンド 「JBL 60th Anniversary 」